MUSICAL『ルードヴィヒ~ Beethoven The Piano ~』
2022.11.19(土)昼、夜 大阪 シアタードラマシティにて
観ている時に頭の中を駆け巡ったこと。
このステージから受けた感動と音楽にまつわる個人的な思い。
どの演目でも観劇中は全体を観て楽しみたい為、ほぼオペラグラスを使わず、観ながらメモを取ることはない。観てどう感じたか、で、楽しみたい。
キャストさんの感想は中村さん中心に。他の方については、また別で書く予定。思うこといっぱいあって全然まとまらない…。
でも、日が過ぎて記憶がだんだん薄れていきつつあり(忘れたくないのに‼)、あと刺激が強すぎる感動が衝撃になったのか本当に部分的に記憶が真っ白になっているため、公演内容の詳細や本編からカーテンコールまでの中村倫也さんの一挙手一投足レポではありません。
ただし、ストーリーや演出にはふれていますので、ネタバレを見たくない方はご注意ください。
📒東京公演千穐楽配信の感想と、19日に観た思いつくまま走り書きしたメモ。歌や音をどう聴いたか、ステージから受けた感覚、雰囲気に飲み込まれた様子など👇
📚 ベートーヴェンの人生について書かれた本。読みやすくて、内容がスッと頭に入った。
・中村倫也さんのルードヴィヒ
凄まじさと脆さが同居して、そしてとてつもなく強い生命力を感じたルードヴィヒ。このミュージカルのキャストは5人だけ。2時間ほぼ出ずっぱりで青年期から死を目前にするまでの姿を、衣装は上着を変えるだけでメイクはそのままだったのか、一場面一曲ごとに、声音と倫也さんの"物語の世界に200%溶け込みそのものになる"表現で、ルードヴィヒの激しい心情と年齢の変化が伝わってきた。
実は中村倫也さんの舞台や映像を約8年ほど見てきて(今までまわりの人に言ってなかった)、わたしには今回が一番、予想以上の全身全霊大きなエネルギーを放って劇場中を飲み込んだと思った。残酷歌劇ライチ光クラブのゼラ以上。ルードヴィヒの原作が韓国のミュージカルだとはいえ、そのあまりの激しい表現に、ルードヴィヒが相当強い魂の持ち主だったと想像できた。
中盤から後半にかけて、40代頃の嫌な中年の表現が最高だった。
甥カールが自分から離れないように高圧的に言葉で抑えつける様子や、はっきり聴こえなくとも自分のことでカールが取り乱してマリーに何か懇願していることに気がつき、楽譜をまとめるフリをしながら聞きたくないことや辛い気持ちから逃げるようにワインを煽って飲む仕草と、心を開いている"不滅の恋人"マリーにでさえ、活発で先進的だけど”女性だから”見下した言動をしてしまう表現が、いわゆる”有害な男らしさ”で、こんな中村さん初めて観た、と思えてめちゃくちゃ興味深かった。
ドラマ闇金ウシジマくんの神堂はかなり薄気味悪くて怖かったけど、まだどこかクスっと笑える雰囲気があった。でもルードヴィヒは本当に高圧的で、取り扱いがややこしいオッサンそのもの。わたしも親に抑えつけられて育った部分があるので、カールが言いたいことを告げるにも震えてしまう様子は共感するものがあり、抑えつけてる本人ルードヴィヒの雰囲気は”毒親”。倫也さんの表現として見ると、ものすごく新鮮。マリーやカールに対する、一応優しい親っぽい口調やジェントルにふるまうけど頭ごなしに見下してる話し方が、こういう親見たことあると思ったり、職場にたくさんいるイライラさせる男性たちをご存知なんですか⁉と聞きたくなるぐらい、完璧に嫌な中年像だった(めちゃくちゃ褒めてます‼)
中村さんが、これから年齢を重ねていかれた時の表現が無限大に思えて、益々楽しみになってきた。
19世紀のルードヴィヒの苦しみと絶望の原因は、自分の才能を失う恐怖と、あと、人気天才作曲家で男性であるがゆえに、弱い姿を世間にさらせず、プライドの高さから”もっと大きな声で話してください”と簡単に言うことができないことや、ごく一部の人にしかつらい心情を打ち明けられなかったのが一番大きかったんじゃないか。
カールへの執着は、ウォルターの二の舞にさせたくない思いが強すぎたんだと思う。
この場面から歓喜の歌の場面まで最高に盛り上がっていくところ、感動が強すぎたみたいで、途中の記憶がぽっかり穴があいたようになっている。
有名な第9、歓喜の歌を表現した場面。絶望と喪失の先にある希望、明暗全て含めて生きる喜びをシラーの詩をベースにベートーヴェンが作った感動的な曲が流れる中、大量の薔薇の花びらが降り注ぎ回転するピアノの上に立って”歓喜‼”と少し狂気じみた叫びを繰り返すルードヴィヒと、2階で銃をこめかみに放つカールが同時進行した。きっとカールの血と薔薇の赤を重ねて表現したんだと思う。この圧倒的な第9を使ったクライマックスで、わたしの頭の中には、くるりの「ばらの花」も同時に流れていた。どうしてかはこの後で書く。とにかくいろんな好きなものが一気に脳内を駆け巡って、数百年ののちにまたこのように多数の人がベートーヴェンの曲によって繋がった不思議な縁にも感動して、頭の情報処理能力がフリーズしたんだと思う。誰が何がどうなって、倫也さんがピアノの上に立ち、福士さんが二階へ上がって、この場面にたどり着いたか記憶が全く無い。
その次に記憶があるのは、マリーが修道女をしている教会に戻った場面。舞台中央のピアノに座ってる年老いたルードヴィヒ(中村倫也さん)の表情は、学校の音楽室に飾られているベートーヴェンの顔、肉付きに似ていて、だけど眼光は弱い雰囲気。そこからラストまでが、3人のルードヴィヒで歌い上げる曲も含めて本当に素晴らしかった。3人で一緒に扉の向こうへ歩く姿に涙が止まらなかった。
観終わったとき、どんな言葉にも当てはめられない深い感動から身体の震えが止まらなかったが、まず主人公のベートーヴェンへ、絶望と背中合わせな状況から貴族だけではなく大衆に向けて曲を作り続けたことに、平伏、感謝したくてたまらなかった。誰かにひれ伏したいなんて、そんな気持ちになったことはめったにない。
・今の音楽とつながった
①わたしと音楽。家族全員好きなジャンルが違い、お互いにけなし合いながら聴きたいラジオやレコードをかけまくる環境で育ち、物心ついた頃にはどんなジャンルや言語の歌でも曲でも”音”を楽しむようになっていた。その延長で、自分でいろんなジャンル、国の音楽を探して聴いた。吹奏楽でクラリネットを約10年ほど経験したり、音楽は日常に必要なもののひとつになっている。
②ベートーヴェンの思い出。高校3年になるまで、今のEテレ、前の教育テレビで放送されていたクラシック番組で交響曲やピアノソナタを聴いたり、年末になると第9合唱付きを聴いて、聴力を失っても名曲を書いた天才作曲家として”普通”に楽しんでいた。
高校の吹奏楽部は部員数が少なく、第9をやるなんてレベルではなかった。でもバイオリニストだった顧問が、毎年一曲は大作を演奏させたかったらしく、わたしが3年になった時、いつの間にか第9『歓喜』第四楽章合唱付きに演奏することになった。
第2楽章の同じフレーズ、リズム、スタッカートの連続に舌もメンタルもキレて、ベートーヴェンが嫌いになりかけた。全然、音を楽しめない。第四楽章でやっとテンションが上がり、知っているフレーズにたどりついた嬉しさで妙にハイになった記憶がある。ベートーベンの壮絶な人生を全く知らなかったから、目の前の譜面どおりにやり遂げることだけでせいいっぱいだった。
③くるりとベートーヴェン。同世代のくるりを聴いて二十数年。どこがどうか説明できないが他のバンドと違う曲調が好きで、他のアーティストのを聴いても、必ずくるりに戻る。曲や情報を追っていると、岸田さんとベートーヴェンのつながりを知ることがある。ベートーヴェンが弟たちへ向けて書いた初めの遺書についている地名、ハイリゲンシュタットを初めて知ったのも、くるりがウィーンで制作したアルバム『ワルツを踊れ Tanz Walzer 』の1曲目のタイトルからだった。
今回のステージと関係ない話を長々と書いたが、倫也さんが熱演したルードヴィヒからより深い感動を受けた理由は、上に書いた自分と音楽、ベートーヴェンに関係した経験とぴったりつながるものがあったからだった。
くるりが主催しているフェス(京都音楽博覧会)で、2021年の配信開催時冒頭に流れた岸田さんのテキストメッセージは、これからの宿題のような言葉で頭にずっと残っている。メッセージは4つだったが、ルードヴィヒを観ながら思い出した③と④を引用する。
京都音楽博時会2021(オンライン配信)くるり
OP 岸田さんメッセージより抜粋
" ③音楽を届けることは、とても社会的な行為。他者に想いを委ね、超原理的なエネルギーを音楽的/言語的な能度に変えること。
④音楽を楽しむことは、鳴らされているものが言い忘れていたことを拾うことができること "
何百年も前にルードヴィヒが、聴力を失っても曲を書き続けて大衆へ届けたことが、今でも誰かに影響して、新しい音や曲が作られていることに繋がった。劇場でルードヴィヒを観ている状態も、超原理的なエネルギーを音楽とセリフで受け取ったような、ルードヴィヒの想いと岸田さんのメッセージがリンクした感覚がして、強い魂の影響力がここまで届いていることに、より深い感動が込み上げた。
あと、ただの音楽や演劇のファンとして、ライブや観劇をオンラインと会場で観ることの違いを考えることがある。配信で観れるありがたさは充分あって、その内容を知るための手段が増えて良かったと思う。でも現地に行く回数が増えてから、出演者やオーディエンス全員、その場所に集う人たちが揺らす空気に身体を浸すか浸さないかで、受け取るメッセージの量が全然違うと実感している。
10月に参加した京都で開催された音博は、大雨でもたくさんの人が集まって、素晴らしい曲に浸る楽しさを思い出した。
ルードヴィヒは、配信でも熱量は伝わってきたけど、劇場で観ると配信の何倍もの熱量と苦しさ、楽しさが伝わった。
絶望や苦悩を乗り越えた先の希望を音に乗せてくれたことが、何年も鳴り響いて今も心を揺さぶられるとは、なんて貴重な時間を過ごせたのかと実感した。
高校生の時に第九を嫌いになりかけたけど、実は何年もいつもすぐ近くで鳴っていた。
くるりの『ばらの花』はベートーヴェンの第9第四楽章"歓喜の歌"と構造が似ている解説👇
前から、この曲と歓喜の歌を同時に再生できる、歌えるという話は聞いたことがあった。
それでかわからないが、ルードヴィヒの第九の場面で、薔薇の花びらが大量にピアノの上に立つルードヴィヒに降り注がれるのを見た瞬間から、頭の中でばらの花も鳴り響いた。全く違和感がなく、圧倒的な場面の感動とばらの花の歌詞、"君が見てるから、でもいない、君も、僕も"が重なって、余計に涙が止まらなかった。
ステージ背景にも薔薇の花が描かれて、キーアイテムのように薔薇が使われているのは、ベートーヴェンとマリーの育ったローズハウスからかなと思った。
ルードヴィヒを観ながら思い出していたくるりの曲は他にもある。
ベートーヴェンじゃなく、ラヴェルのボレロを使った"ソングライン"
"生きて 死ねば それで終わりじゃないでしょう"
There is (always light)
"あなたが残した音楽も台詞も 全然 普段使い 新しい景色にも 困難多き時代にも響く"
今まで中村倫也さんのお芝居を全部劇場で観たわけじゃないけど、劇場でも映像作品でも、そのキャラクターの遺伝子から作り上げて人生を発生させているんじゃないかと思うことがある。ストーリー内で死んでしまうキャラクターなら、そのキャラクターの魂を鎮めて、供養しているような慈愛の雰囲気を感じることもある。何かのインタビューかご自身が以前書かれたブログだったか、キャラクターを供養するみたいなことを書かれていたような気がするけど、はっきり覚えていない(雑でごめんなさい)
ルードヴィヒに対しても、なんとなく鎮魂や慈愛の雰囲気を感じたせいか、僕が何をした!僕の耳を返してくれ!音楽がやりたいんだ!と泣き叫び、全身で震えながら銃口を自分に向けて命を終わらせようとする姿を見た時、どうしてか、いまの時代の早くに亡くなってしまったミュージシャンや殺されたウクライナの指揮者、音楽を通じて知り合った若くであの世へ逝った友人のことが頭に浮かび、ベートーヴェンだけでなく、その人たちへも祈りたい気持ちが溢れてきた。どんな音を奏でようと考えていたのか質問してみたくなったが、もう聞くことはできない。わたしにできることは、手元にあるCDやストリーミングで曲を聴くことしかできない。
専門用語とか難しいことはすっかり忘れて、ただ音楽を聴くだけしかできない人間だけど、何年も影響できることなら、音楽や演劇、人が感じたことをいろんな手段を使って表現するものを絶やすようなことは絶対にあってはならないと改めて強く思った。
心身を消耗しきってないか割と本気で心配になるぐらい中村倫也さんはじめキャストの方の熱演が、ストーリーの感動と自分の経験にも重なり、音楽の力の強さも実感できた、心ににずっと残りそうな本当に素晴らしい貴重なミュージカルになった。
・リピート再生を止められないゲネプロダイジェスト集…
2022.10.29 ~ 11.13 東京 芸術劇場
11.16 ~ 11,21 大阪 シアタードラマシティ
11.25 ~ 11.26 金沢 赤羽ホール
11.29 ~ 11.30 仙台 電力ホール