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日記。観たもの、聴いたもの、読んだものについて思い浮かんだこと。感想はネタバレを含んでます。

ドラマ「モアザンワーズ」感想

ドラマ「モアザンワーズ」を観た感想。

ネタバレしてます。

Amazon Prime配信。全10話。

視聴注意。暴力、暴行描写によるフラッシュバック、性的行為、怒る声。

 

原作は絵津鼓さんのコミック『モアザンワーズ』と『INTHEAPARTMENT』の2作。

モアザンワーズは美枝子中心。

INTHEAPARTMENTはマッキー(妹尾槙雄)を中心にしたお話で、ジャンルはBL。

 

realsound.jp

 

とても良かった。心はズキズキした。よくSNSで見かける、”優しい、切ない、かわいそう、泣ける” だけで書きたくないと思うけど、シンプルに告白するとボロ泣きした。

 

男性が同性に惹かれる。男が苦手な女の子。まわりの人と違う感覚があると思ってる。その人だから安心して過ごせる男女3人。受け入れてもらえない関係性を大人に認めてもらうため子どもを産みたい。社会の中で普通とされる家族感や生活スタイルから考えると、何もかも当てはまらない。

 

脚本は浅野妙子さん。

島本理生さんの原作小説を映画化した「ファースト・ラヴ」の脚本も書かれていた方で、いろいろしんどい内容でも静かに響いてとても良かったイメージが頭にあって、このモアザンワーズも繊細なストーリーを冷静に愛情を持って描かれるだろうと期待した。観た後はその期待を超えて、キャラクター全員の日常生活をしっかり描かれていて、誰もが当たり前のようにその街で生きていると感じられたのがとても良かった。

代理出産も含まれているせいか、ドラマ配信が発表された時から、いま議論されてる代理母案の反対派と思われる人のドラマ配信反対ツイートをいくつか見た。

 

 

原作を読んだ時に思ったこと。

繊細。揺らぐ。脆い。諦め。受け入れる。受けとめる。暖かい。

ドラマも原作と同じ感覚があって、さらに人や風景、色、音が醸し出す周波数のようなものが、この世に何もこわいものはないと思わせる安心感と一ミリずれると途端に壊れてしまいそうな危うさが同居している空気を緻密に表していた。

舞台は京都市内で、よく京都へ遊びに行くので見慣れた風景が出てきて、より親近感が湧き、話に入り込みやすかった。

 

 

メインキャラ4人は、原作のイメージ以上にその人そのものだった。4人に関わる友人、兄妹、たまたま出会った役者志望の女性、いい加減に見えたりどこか冷たく見えることもある大人たちの佇まいは、生きる為に現実を受け入れざるを得ない諦念も含めた社会で生きる人の感情を全て表現されていて、試行錯誤しながら生きる若者たちを実はしっかり支えていた。

 

始めのころの美枝子は、しっかり者に振舞っているが、圧倒的に家族を繋ぐもの、特に父親からの愛情が抜けている雰囲気が、どこに向かって日々過ごしていけばいいのかつかみきれずにぼんやりしているようだった。父親が家から出て行った後、記憶と感情を抑え込んでいるように見えた。マッキーと仲良くなり、バイト先で永慈と出会って3人で過ごしはじめてから、居場所ができて安定した雰囲気へ変わっていった。

 

でも、永慈の自宅で父親がお土産を配る時、美枝子だけ駆け寄らず少し離れたソファに座り、お土産を見てワイワイ盛り上がるみんなの様子を楽しそうに眺めていたのが印象に残った。美枝子の家族観に含まれる距離を表しているようだった。

 

安心して過ごせる場所、目には見えないけど生きる上で繋ぎ止めてくれるものを感じる経験がある時から止まったせいか、永慈の家族を見て初めて暖かい雰囲気を知ったのではないか。家族っていいなあと思ったから、永慈の父親がマッキーと永慈に別れてほしい、孫の顔が見たいと言った時、みんなを繋ぎとめられるなら、出産できる機能を持つ自分が子供を産むと決断できたのかも。

美枝子は目的の為に子供を手段に利用してしまった罰が当たったと言ったが、二人の子供を産むと決断した時、子供の命を軽んじる気持ちは無かったと思う。

 

母親は娘に興味がないと美枝子は長い間思い込んでいた。世話してもらった経験、大事にしてもらった記憶がない。態度や気持ちだけではなく、ずっと一緒にいたいと思う人と身体がつながった時に、それまで想像できなかった感情が湧き上がったり、しんどい思いをしながら出産して生まれた子供の可愛さを目の当たりにした時に芽生える感情によって自分たちと自分以外の大切な人の命にかかわる生活や人生観が変わることを、もう少し早い段階で見聞きしていたとしたら、美枝子はどう選択したのかと思う。

 

妊娠したと話した時から、その母親も、娘と二人で生きていくために現実と対峙して、ふらついてばかりではなかったことが会話からわかっていった。出産直前の美枝子が、小さい頃の父親と柿ピーにまつわるエピソードを母親から聞いてから大泣きするまでの"間"が、それまで美枝子がつかみそこねていたぼんやりした感情やマッキーに求めていたものが数秒間で心に流れ込む様子を捉えた瞬間だった。さすがに、もっと早くに言ってあげてたら、ここまで悩まなかったのでは・・・と思ってしまった。

ともさかりえさんの、いい意味でええ加減、相手の親御さんにも挨拶せなと、すっと言える母親の雰囲気は良かった。

 

 

永慈は同じ感覚を持つ人向けのイベントに行ったが、身体を求めてきた人を受け入れらなかったことに落ち込み、その後マッキーと話していくうちに何を求めていたのかに気がついた。この流れをしっかり描いていたからその後の選択につながったと思えて、とても良かった。永慈はまわりの環境にすっとなじめるが、心が安心、安定できる場所を求める人だと思う。気持ちや身体は男性にのみ向けられると思っていたが、女性で唯一美枝子に気持ちが向いたのも、絶対的ではない人間らしさを表していたと思う。

 

 

永慈と美枝子の選択は、ライフイベントを通じて自分の理想だけを追えない現実を受け入れ一般的な社会で生きる"いわゆる大人"に変わる過程を描いた。

早くから大人になることに憧れていたマッキーは、タバコを吸っても、お酒を飲んでも、何も変わらない。誰とでも打ち解けられる寛容さ、朗らかさと、不安感や強い孤独感を内に抱える危うさや浮遊感を同時に表していた青木柚さんのマッキーは素晴らしかった。永慈や美枝子、朝人といる時は地に足がついているのに、一人になるとなんとなく浮いている。目を離すと、ふっとどこかへ消えてしまう危うさ。夜道に一人でふわっと現れる雰囲気。原作のイメージ以上に、マッキーがどこかの河原でタバコをふかせて座っているのが目に浮かぶ。生きる感覚を求めるように永慈や朝人と繋がろうとするマッキーが、気持ちの繋がりを美枝子にも求めていたのは、マッキーも安心できる家族のような関係性を探していたのではないか。

厳しい祖父につらい気持ちを持っていた朝人が、自分の悩みもあるからこそ、マッキーの過去の話を淡々と踏み込みすぎず聞く姿勢やご飯を一緒に食べようと勇気を出して言ったのが良かった。

 

ゲストのキャストさんも好きな方ばかりで登場時間は短いけど、短い間にキャラクターの持つ強烈な印象を残してくれた。2話で原作にないオリジナルキャラのバー店員を演じられた上白石萌歌さんが、マクベスの一節を引用した即興を演じ、考え過ぎたらあかんということや、と言った時の雰囲気が、繊細なストーリーが進もうとしている中でアクセントになって良かった。

 

 

ストーリーの変化と合わせて主題歌の担当が、AwichとSTUTS、iri、宗藤竜太、くるりに変わったのも上がるテンションにパンチが加わった。

 

 

原作とドラマどちらもキャラクターのセクシュアリティを表す名前をセリフに出しているのは、永慈がゲイであることだけ。美枝子やマッキー、朝人、ゲイと自認している永慈でさえ、その言動から変化していく日常を描いたお話なので分類名に閉じ込めたくないと思ってる。同じ名前を自認している人でも、一人ずつ、感覚や選ぶ生き方は全員同じではない。

 

マッキーのセリフにあったように、男でも女でも好きと思ったら好きな人。

気持ちが誰に向くか。向かないか。

身体を繋げたいと思うのは誰か。

接触しなくても安心できる人と一緒に過ごしたい。

ひとりで過ごしたい。

人によって、その組み合わせは一つの形に当てはめられない。

でも社会は一つの形を求めてくる。

社会構造が格差を生んでる話が頭に浮かんでしまうけど、その話は置いておく。

 

マッキーと美枝子が、永慈がいない場所でゲイだと話して、アンナたちに知られた場面は、現実ではとても危険なこと。他の人のセクシュアリティを知ったとしても口に出してはダメ。原作を読んだ時も、この場面は現実に引き戻された。

 

作品のレビュー記事をいくつか読んだ中で、美枝子をおそらくアセクシャルだろうと書いてるものがあった。書いた方は、限られた文字数の中で簡潔に説明する手段として、男性が苦手、性嫌悪がある描写からその名前を使われたと思う。

 

わたし自身は、たくさんの人たちを傷つけたことがあり、人に迷惑をかけないで生きるために自分の感覚を調べて、アロマンティック/アセクシャルを自認した。美枝子から近いものと違和感両方感じたので、公式から発表しているか気になって調べてみたが、美枝子のセクシュアリティについての発言や明記されているものを見つけられなかった。

美枝子は自分が何者かを言葉で探らず、永慈やマッキー、榊、アンナと過ごすうちに芽生えた感情からどう生きるかを選択していった。文字数の制限がないところでは、彼女の説明にはセクシュアリティの名前にこだわらなくて良いとわたしは思う。

 

このお話に出てくる人たちの言動に、倫理観から湧き上がる拒否感や罰したい気持ち、理解できない気持ちがあってとまどうのは仕方がない。ただ、マッキーを見て、切ない、かわいそうと思ったとしたら、その想像力を使ってマッキーに似てる人が街のどこかにいると考えられる人が少しでも増えてほしいと願う。

求められる容姿や人間関係の形に当てはまらないせいで、自分だけ時間が進んでいないように感じたり、存在してはいけないのかと考えてしまい、強い孤独感から抜け出せなくなる人がいる。

どんな感覚を持つ人であっても、いまここに生きている。

 

 

その人の名前を呼ぶ。呼ばれる。

一緒にご飯食べへん?

バーベキューしようや

今日はすき焼きやで

 

当たり前に見聞きする一言が、ここにいてもいい、と思わせてくれる。

 

くるり好きなので、8話から10話の主題歌になった『八月は僕の名前』の歌詞は生きていていいと思える暖かい愛情があり、メロディとアレンジはその瞬間にだけ感じられる青臭い気持ちや有限の輝きみたいなものがあり、涙腺にとても強い刺激を与えてくれた。

 

生き方に迷う若者の青春群像劇だけど、人との交流と繋がりの大切さ、気持ちのすれ違いによる危うさと脆さを想像させてくれる、とても貴重なドラマだった。

 

原作の続INTHEAPARTMENTは、ドラマのその後、マッキーと朝人がどんな生活を選択したかが描かれているので、男性同士のセックス描写があり読むのに抵抗がある人もいると思うが、気になる人は読んでみるとより楽しめると思う。朝人の友人カップルも出てきて面白いので、できればそのあたりの話も映像化してほしい。

 

くるり好きとしては、10話の5分を過ぎたあたりから、斎藤工さん演じる朝人の兄が座るカウンターの後ろの壁に貼られている京旅のポスター左下の文字に目が釘付けになった。美術さん、いっぱい楽しませてもらいました。

 

 

 

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